それほどでもない話があるところ。

ほんの些細なノスタルジー。文章。暇をご用意ください。

ある感性の一瞬

「……という花ですよ。お気軽にどうぞ」

 花の存在を知っていても、名前が分からない。というのはよくあることだろう。この花に対しての私もそうだ。客室係がサービスをしているこの花の名前が分からない。見渡せば、ほとんどの乗客が買っていた。地域の名産品で、ここでしか買えないものなのだ。もちろん私と隣人も買った。

 名前が分からない私たちは、自分たちで名前を付けることにした。隣人が適当に付けていいかと言い出したのだ。そして私たちは、この花を「ひばな」と呼ぶことにした。漢字にはしない。おそらく他の乗客たちは何のことだかさっぱりだろうが、この花は「ひばな」と呼ぶのが合っている。

 それはさておき、「ひばな」には面白い特徴がある。その美しい花びらに生き物が触れると、花は放電してあたりに散る。というものだ。なんとも刹那的ではないか。子どものころによくやったような、たんぽぽの綿毛を吹き飛ばすような、ね。

 周りの乗客は、気軽に花びらに触れている。その瞬間を掴んだ消えたと盛り上がるのだ。なぜそこに個人差があるのかは解明されていないらしいが、「ひばな」に車内は盛り上がっていた。

 けれど、私はなかなか気軽に、とはいかなかった。

 車内に分厚い本を持ち込みはしないけれど、私とて読書くらいはする。隣人が何を思い浮かべて、この花を「ひばな」と名付けたのかくらい分かったさ。

彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄すさまじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。

まったく、隣人らしい。まさに適当な名前である。

 私は、そんな隣人に視線を向けた。隣人は「ひばな」をじっと見ては、自分の世界に入っていた。あの一文を思い出している隣人も、躊躇してしまうのだろう。

 本来、火花を捕まえることなど出来はしない。

 そもそも、私たちがこのような感性を持ち合わせていなければ、何ともないことなのだ。自分の命と取り換えても捕まえたかったものが人生にあったか、など。もしかしたら、など。火花を掴めるかもしれない、など。

 私は、隣人の様子が大変気になった。けれど、気になったでとどめておこうと思う。

 私は、「ひばな」の花びらに触れた。それは、一瞬で火花に変わっていった。

 

おわり。

(布団カバーを新しくしました)