そんなんじゃないですよ
「これは良いもんでな」
特急列車の車内。隣人が席を立った数分後、初老の男性がそこに腰掛けた。
私に話しかけているのか、それともひとりごとなのか。結局、私はなにも答えなかった。
「今はつくるところも減ってしまったが、昔はここら一帯はこればかりだったんだ。触ったことはあるかい? 手が美しく見えるんだよ」
男性は、どうやら私に話しているらしい。私は男性の方を向き、視線を交えた。
「お前さんにやろう。綺麗な目をしている。もらってほしい」
男性はそう言うと、私の手を取り「良いもの」を握らせた。無論私は否定をして断ったが、無駄に終わった。
「綺麗な目、だなんてとんでもない。貴方の方こそ……」と、言いつつお返ししたかったのだが、男性は立ち去ってしまった。
私はこれをどうすればよいのかと悩んだ。ふと車窓を見る。流れる景色はのどかなもので、私の心とはだいぶ落差があるようだ。
そういえば、ここら一帯はこればかりだったと言っていたな。
私はほんの好奇心から、窓に近寄った。少し開けて、外の空気でも吸おうかとしたのだ。けれどどうにも建て付けが悪く、ガタガタと音を鳴らしている。私は両手で窓を開けた。
その瞬間、風が車内に入り込む。そして、私の手から「良いもの」を攫っていってしまったのだ。あっという間の出来事に思えた。
そんななか、隣人が帰ってきた。窓を開けて茫然としている私に、当然の質問をしてくる。私はことの経緯を話したが、それを攫われてしまったことは黙っておいた。少々バツが悪かったのだ。しかし、また当然の質問をされる。
「良いものって何だったんだ?」
私は困った。見せないわけにはいかない。「綺麗な目をしているお前さんに」の部分を、誇らしげに言ってしまったのだ。
追い詰められた私は、咄嗟に手の平を見せた。
「これ。らしいんですよ」
勘のいい隣人は一瞬戸惑い、そして微笑んだ。
「なるほど。私の目には何も見えないよ」
「綺麗な目をしている人には、見えているんでしょうね」
え? そんな人はいません。
※架空の特急です。
おわり。
(灯油ストーブの前で書きました)